「律法を越える愛」  04−03−28
               ルカ14:1〜6

 安息日に、ファリサイ派の議員の家で食事をしていたイエスさまの前に、
水腫を患っている人がいました。イエスさまの評判を聞いて、自分から進んで
イエスさまの前に来たのかもしれません。あるいは、ファリサイ派が、安息日の
イエスさまの行動を調べようと、無理矢理そこに連れてきたのかもしれません。
いずれの場合でも、この病気の人は、緊張や不安で一杯でした。

 イエスさまは、ファリサイ派の人々に「安息日に病気を治すことは、律法で
許されているか、いないか。」と問われました。彼らは黙っていますが、
「働く日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と
いうのが、律法の専門家の見解でした(ルカ13:14)。もう一日待てば良いのです。

 そんなやり取りを聞いていた水腫の人は、どのように感じていたでしょうか。
自分の病を治してもらえることは、無理だと思ったに違いありません。
 しかし、そんなあきらめの思いを振り払うかのように、イエスさまの手が
伸ばされます。イエスさまは、ご自分の前にいるその人を、かけがえのない息子の
ようにご覧になっていました(5節)。どうしても放っておくことのできない存在であり、
無理を承知で何とかしてあげたい相手としてご覧になります。そして、病を治して
しまわれました。無理なはずのことを実現されたのです。

 この安息日の出来事は、安息日に主の前に集い、礼拝をする私たちの姿を
映し出しています。礼拝で、このイエスさまのまなざしの中に身を置きます。
そのまなざしに励まされ、御手によって無理だという思いが振り払われていきます。
 主の助けと導きによって、無理なはずのことが実現されるのです。

 何よりも無理なことは、義なる神さまが、罪ある者を迎え入れてくださり、
罪ある者の父となってくださることです。
 その無理を実現するために、主イエスは十字架で血を流し、命をかけて
私たちの罪を取り除いてくださいました。
 無理を実現される神の愛、そのために十字架に進まれる主イエスの姿に
目を奪われます。